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Key-Eyeとは?
これからの九州の情報化推進に向け、ひとつの「鍵(Key)」となる、あるいは新たな「視点(Eye)」となる話題を提供していこうとする思いを込め、「Key-Eye」というネーミングにさせていただきました。
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【2023年度執筆者】 東北文化学園大学 工学部長 教授 東北大学 名誉教授 情報通信研究機構(NICT)レジリエントICT研究センターR&Dアドバイザー 鈴木 陽一 氏 2023年度「Key-Eyeあるメッセージ」は鈴木様よりいただくこととなりました。第三回は、「電波伝搬」に関する最近の漢字使用に関する考察をテーマとして寄稿いただきました。 [記事全文はこちらから] |
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国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT) 電磁波研究所 電磁波伝搬研究センター 宇宙環境研究室 宇宙天気予報グループ グループリーダー 久保 勇樹 氏 NICT様より提供されている「宇宙天気予報」の概要等について、ご紹介いただきました。 [記事全文はこちらから] |
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「大西 圭 氏」 九州工業大学 大学院情報工学研究院 情報・通信工学研究系 教授 技術に人間の視点を考慮し、人間を評価系とした情報通信分野の研究開発を行っている大西様より寄稿いただきました。 [記事全文はこちらから] |
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「後藤 喜博 氏」 株式会社APC 情報システム事業部 大分開発センター長 地方のシステムエンジニアが抱える共通的ジレンマへの直面とその解消体験を通じ、日々のシステム開発業務に注力されている後藤様より寄稿いただきました。 [記事全文はこちらから] |
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「嬉野市」 九州新幹線西九州ルート「嬉野温泉駅」、並びに同駅隣接の道の駅「うれしのまるく」開業に伴い、新たに嬉野市様にて取り組まれている観光DXの概要について紹介いただきました。 [記事全文はこちらから] |
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「九州デジタル推進ワーキンググループ」他2件 [詳細はこちらから] |
人の決定の9割以上は自身が決断する前に脳が無意識に下している、というお話を耳にしたことはないでしょうか。実は、人間が判断を自由にコントロールするという「自由意志」の存在自体は、科学的にはまだ十分に証明できていないようでして、そもそも脳科学の中では、自由意思というもの自体が存在しておらず、あらゆる決定は脳の相互作用の中で行われており、その結果を人は後付けとして、自分自身の意思:自由意思として記憶を改ざんしているに過ぎない、という説があるようですが、何ともすぐには理解しにくいところです。この辺に関しては、そもそも「自我」とは一体何なのか、といったある種の哲学の範疇にまで踏み込んでいくことになるのかもしれませんね。ただ、最近の研究では、0.2秒の自由意思の可能性も発見されています。これは、簡単にいえば、決断自体は脳が自由意思とは別に事前に決めてしまうものだが、脳が決めたことに対し0.2秒前なら自身でキャンセルできる、というものです。つまり、決断に自由意思の入り込む隙間があることが実験上証明された、ということとなります。また、この実験結果以外にも、そもそも自由意思の存在は、手を動かす等の簡単な動作レベルの実験では測れず、人が下す様々な高度な決断全てが無意識下のもとで行われているものではない、という説も一定量あるようです。この場で人の自由意思の存在自体の有無についてこれ以上語れるようなことは到底できませんが(笑)、無意識下での決断、つまり自由意思ではなく人は脳という人体組織が行う相互作用の中での決定に従う、という説に対しては、少し思いを巡らすことができるかな、と思うところです。
脳が行う相互作用を、決定に対する外的要因、さらには記憶、欲望等といった内的要因等に関わる脳の神経(ニューロン)活動の結果ととらえるのであれば、これとAIとの差は一体どれほどあるのか、と。つまり、仮に人が自由意思を持たない存在だとした場合、ニューラルネットワークというアルゴリズムでもって実現された深層学習により、様々な情報、知識から一定の結論を導き出す現在のAIは、人の無意識下での決断の根拠を提供するものとしてもなりうるのではないか、ということです。それを人が後付けとして、自身の意思ということに処理できるのであれば、脳そのものをAIに置き換えられるということにもなります。いや、これは流石にちょっと考えが行き過ぎですね。人には決断というものだけでなく、(ある種の決断の集合体なのかもしれませんが)「創造」という、いわゆる「無から有(0から1)」を産み出す行動もあり、この創造とは一般的に「知性」という人のみが有するといわれる能力に基づくものです。あくまでも個人的意見ですが、創造とはまさに自由意思の存在を肯定する最大の要因なのではないかと思う次第です。ただ、社会生活上、一定の分野を除くと、人がこの創造を求められるシーンとは実はあまりそう多くはないのかもしれません。そうすると、少し強引ですが、もし人が自由意思を持たない存在とした場合、創造力を必要としない人とは、ある意味脳をAIに委ねることも可能、ということになるのでしょうか。また、全ての創造にあてはまるものではないと思いますが、現在社会における創造とは、高度情報化社会でなかった時代の創造とは少し異なる様相となっているのではないか、とも思う次第です。例えば楽曲の作成において、現在は多様なジャンルの楽曲データを収集改編させていくことが可能で、そこから新たな楽曲を創造(といって良いのか)しているケースが多いのに対し、時代を大きく遡り、例えば中世の頃を考えた場合、他の楽曲の刺激、参考といった事象はこの時代としてもそれなりにあったにせよ、自身の創造力を作品に注ぎ込んでいくプロセスとは、現在とは比較できないほど大きかったものではないかと。音楽の専門家に怒られそうですが(笑)、例えば、確かにベートーヴェンとかモーツァルトというのは天才なのでしょうけれど、彼らを超えるような音楽家が現在社会に誕生していないのは、ひょっとすると、テクノロジーの進化につれ、人の創造力、つまりは自由意思の活動領域が狭まってきているからなのではないかと、ふと個人的に考えたりもします。
今、新たなAI時代を迎えている中、人の無意識下での決断、あるいは自由意思での決断といった、つまりはそもそも自分自身の意思とは何なのか、意思とはどこから生じてくるものなのか、意思は何をもたらしてくれるのか、といった点に改めて着目してみるタイミングが訪れているのではないでしょうか。何をAIに委ね、何を人として決断、そして創造していくのか、といった点を考える際、最終的にはこの辺の議論に行きつくのかもしれません。
ゲーテが残した格言に「自ら創造し得るもの以外には何ら正当な判断を下し得ないものである」というものがあります。人の自由意思に基づき、自ら創造し得ることの重要性を追求してこそ、AIとの正しい向き合い方も見えてくるのではないか、個人的にこの格言からそういうことを感じた次第です。みなさんの日々の自由意思はいかがですか。ひょっとすると今日1日、何も自由意思を持った決断をしていなかった、ということがないでしょうか(笑)。